集落への私の役割

次の日の朝長洞に居る人達の集会での事です、まだ、まだ帰って来てない人が居るらしい.家のかみさん大船渡に行ったんだが、帰ってこない、だめだたんだな~、そんな声があっちこっちで聞こえる中、思わず私が皆の前でお願いしたことがある、この被災者達を、助けてくれないかと言う言葉でしたそんな中,当り前だろう、こんな時皆で助け合わなければ、いつ助けるんだという、叱りの言葉でした、もう涙が止まらない、あの時の長洞の人達の私達への思いやり、優しさは今も忘れることが出来ない、、自分にできる事少しでも良いから頑張ろう、そんな思いでした、私の役割は今現在長洞に避難して居る人、何処に誰が居るか全戸の確認と食べ物、コメの数量の確認でした1か月支援無しで生きなければならない、このとき長洞に居た人(205人最大の時250人までになる)私が、一件一件聞いて歩きました、申し訳なっかたです,行く所.行く所これ全部持って行け、長洞地区などは玄米で保管せず、もみ殻付きで保管する習慣です一袋35kg位、白米にすると23~25kg位です、隣の袖野地区からもおにぎりの支援もあり食べさせるめども立ち安堵である、後で聞いたのだが、高田第一中学校などの避難所などは本当に悲惨な様子だったそうです。、自分たちが食べる米などが無くなる覚悟で我々に食料など提供したくれた人達、

そんな思いで我々を支えようとした気持ち本当に有り難かった、私ができる事、今まで私を育てくれた人達、津波のたびにわが家を支え助けてくれた長洞の為、今しかない、今だから出来る、今返さなければ成らない、集落えの恩返し、世代を越えた恩返しか無いそう思いながら自ら立ち上がるのである。次回、

 

 

 

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生きる事、生かされる事

3月11日の夜、自治会長宅に避難した人々、何人位い居たのか。定かでないが50人位避難していたようだ。強い余震が何度も襲う、その都度外に飛び出してくる、また来た、、また来た、今度は大きい、本宅は避難している、老人、女の、人達で一杯です、ろうそくの明かりだけ、寒さで震えている人達、幸い俺たちが避難している会長の作業場には薪を燃やせる、場所が有る、お湯を沸かして、ペットボトルに入れて湯たんぽ出来上がり、誰かのアイデアです。ご飯も食べたらしいがよく覚えていない。(うちの妻の方がよく覚えているらしい炊き出しは女性の係り)我々は対策会議である、被害状況がまるで分らないが、およその見当が付く、ここにいる人達は生きている、明日からどうするか、色々意見、出たが、少なくても、1週間は支援が来ないだろう、いや1ケ月かかるかも知れない、1ヶ月間どのように生きていけるか、1晩中相談だった。皆家族の事が心配だったと思う。私の二人の娘達も生きているだろう、と思いながら

1か月支援が来ない事への取り組みが始まる。次回 続きを読む

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小さな漁村集落長洞への思い

震災から2年近くに成る、震災の事が日々の忙しさに、少しずつ思い出せない事が多くなってきた、避難所での事、震災に対する自分の役割、集落への思い、集落民の私達への思いやり。

もう一度思い出しながら被災体験 第2弾長洞元気村村長の思いとして、少しずつ書いてみよう、

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少し復帰

少しずつ復帰です、ストレス、と疲れから来る、めまいと吐き気だそうです、女性に多いらしいです、(俺、やさしいからかな~)アワビの開口も近いので、無理をしないでいようと思う。

漁協に注文していた、浜ポール、水メガネ、防水のウエットスーツ,しめて10万円なり、帰り際に職員にアワビの入札価格を言われた、あまりの安さに、愕然です、1kg5000円安すぎる価格です、元が取れない、今年の冬のボーナスが無いと同じである、返品と言ったらダメですと言われた、夏のウニ漁もダメ、アワビ漁も期待できない、これでは今年の出資50万痛い。

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