開村式の準備も着々! 投稿日:2011年7月16日 作成者: genkimura Check 仮設市街地研究会の先発隊が到着。早速、開村式の会場準備作業に入りました。夜は開村式に向けた仮設入居者による打ち合わせ会議、役割分担が決められ翌日の集合時間が決められました。前向きで活発な話し合いが行われました。集まっただけで元気を貰った感じです。今日も明日もどんと晴れ。
長洞元気村の開村、おめでとうございます! いつも遠い空の下から、ホームページやツイッターを通してみなさんの活躍ぶりを拝見しております。 僕とI塚さんが、長洞におじゃましたのは、あの震災から10日後のことでした。本部に到着したのは夕方。真っ暗な中で、ヘッドライトを頼りに前川会長にお話を伺いました。 今でも覚えているのは、おそらく前川会長だったと思うのですが「元に戻ってからまた来てよ。おいしいわかめ食わせてやるから」と言われたことです。顔はやさしい笑顔でしたが、「はやく元に戻すんだ」という、かたい決意を感じました。震災から、まだ10日ちょっとしか経っていないので、あちこちががれきの山で大変な状況なのに、もう復興したあとのことを話しているのです。 希望というか、人間が持っている強靱な力というか。その言葉を聞いたとき僕は、人間には誰にでも、人生に一度、出すか出さないかわからないけれども、ど根性のようなものすごいパワーが備わっているのではないかと思いました。そのものすごいパワーの成果がこの長洞元気村なんだと思います。 東北地方は昔からいろんな災難にあってきましたが、ご先祖様たちが脈々と命をつないで、今の僕たちの生きるこの時代を作ってくれました。一度ひっこぬかれた雑草が何事もなかったように再び根を生やして種を散らすように、淡々としぶとくあきらめずに、復興していってください。先祖がそうしたように、この歴史の節目を乗り越えていってください。東北の人間の一人として、長洞元気村を応援しています。そしていつか、おいしいわかめを食べさせてください。楽しみに待っています。 返信 ↓
慶祝 元気村開村によせて 皆さんと出会ったのは本当に偶然でした。被災地の取材に入り、たまたま長洞に向かうことになったのです。そこから思いもかけない展開になりましたね。 新人として盛岡に勤務していたころ、たびたび「津波の怖さ」を放送で取り上げてきました。避難訓練のたびに「意識の低下」を叫んできました。今回の震災で多くの防災担当者が頭を抱え、後悔の念に悩まされました。私も同じです。自分のやってきたことは何だったのか。無駄だったのか。多くの人を救えなかった事実を突きつけられ、押しつぶされそうになりました。 そんななか、「長洞erズ(ながほらーず。親しみを込めて皆さんのことをこう呼ばせてください)」の存在は多くの人を驚かせました。この人たちは日本から独立だってできるんじゃないのか。我々は驚きをもって取材を重ね、地域に暮らす人同士の結びつきの大切さを世に訴えました。自分を含め、都会の者らは思い知れ、そういう思いで皆さんに向き合いました。すべてを引き寄せ、仮設の元気村までも理想に近い形にしてしまう力。今も、何か信じられないような感じさえします。 何度目の取材だったか、花の季節に誠二さんと語り合いましたね。覚えていますか。「花が咲いてますね。鳥の声も聞こえますね」「春は来ないと思っていたけどちゃんと来るんですね」…明けない夜はない、皆さんはそう信じられるから、こうして未来をしっかりつかんでこられたのだと、心からの敬服をもってしみじみと感じます。 片付けに忙しい皆さんのところへ何度も通い、誠二さんの留守番をした程度でほとんど手伝いもせず、ご迷惑ばかりかけてしまったと思います。今度はプライベートで出向いて皆さんの何か力になりたい。そう思います。 暑い夏になりましたね。どうか体に気をつけて、この調子で新しい暮らしを、新しい未来を勝ち取ってください。これからも応援しています。 返信 ↓
私はスリランカ国でNHKでながほら元気村のことを見ました。何年間前スリランカもつなみで大変な目に会えました。 元気村の人はなくなったものはたくさんあるけどいつでもなくならない人のチームワークを使って会え向きで頑張っていただきたいです。 日本でみたやさしい町をまた建ててください。 返信 ↓
長洞元気村の開村、おめでとうございます!
いつも遠い空の下から、ホームページやツイッターを通してみなさんの活躍ぶりを拝見しております。
僕とI塚さんが、長洞におじゃましたのは、あの震災から10日後のことでした。本部に到着したのは夕方。真っ暗な中で、ヘッドライトを頼りに前川会長にお話を伺いました。
今でも覚えているのは、おそらく前川会長だったと思うのですが「元に戻ってからまた来てよ。おいしいわかめ食わせてやるから」と言われたことです。顔はやさしい笑顔でしたが、「はやく元に戻すんだ」という、かたい決意を感じました。震災から、まだ10日ちょっとしか経っていないので、あちこちががれきの山で大変な状況なのに、もう復興したあとのことを話しているのです。
希望というか、人間が持っている強靱な力というか。その言葉を聞いたとき僕は、人間には誰にでも、人生に一度、出すか出さないかわからないけれども、ど根性のようなものすごいパワーが備わっているのではないかと思いました。そのものすごいパワーの成果がこの長洞元気村なんだと思います。
東北地方は昔からいろんな災難にあってきましたが、ご先祖様たちが脈々と命をつないで、今の僕たちの生きるこの時代を作ってくれました。一度ひっこぬかれた雑草が何事もなかったように再び根を生やして種を散らすように、淡々としぶとくあきらめずに、復興していってください。先祖がそうしたように、この歴史の節目を乗り越えていってください。東北の人間の一人として、長洞元気村を応援しています。そしていつか、おいしいわかめを食べさせてください。楽しみに待っています。
慶祝 元気村開村によせて
皆さんと出会ったのは本当に偶然でした。被災地の取材に入り、たまたま長洞に向かうことになったのです。そこから思いもかけない展開になりましたね。
新人として盛岡に勤務していたころ、たびたび「津波の怖さ」を放送で取り上げてきました。避難訓練のたびに「意識の低下」を叫んできました。今回の震災で多くの防災担当者が頭を抱え、後悔の念に悩まされました。私も同じです。自分のやってきたことは何だったのか。無駄だったのか。多くの人を救えなかった事実を突きつけられ、押しつぶされそうになりました。
そんななか、「長洞erズ(ながほらーず。親しみを込めて皆さんのことをこう呼ばせてください)」の存在は多くの人を驚かせました。この人たちは日本から独立だってできるんじゃないのか。我々は驚きをもって取材を重ね、地域に暮らす人同士の結びつきの大切さを世に訴えました。自分を含め、都会の者らは思い知れ、そういう思いで皆さんに向き合いました。すべてを引き寄せ、仮設の元気村までも理想に近い形にしてしまう力。今も、何か信じられないような感じさえします。
何度目の取材だったか、花の季節に誠二さんと語り合いましたね。覚えていますか。「花が咲いてますね。鳥の声も聞こえますね」「春は来ないと思っていたけどちゃんと来るんですね」…明けない夜はない、皆さんはそう信じられるから、こうして未来をしっかりつかんでこられたのだと、心からの敬服をもってしみじみと感じます。
片付けに忙しい皆さんのところへ何度も通い、誠二さんの留守番をした程度でほとんど手伝いもせず、ご迷惑ばかりかけてしまったと思います。今度はプライベートで出向いて皆さんの何か力になりたい。そう思います。
暑い夏になりましたね。どうか体に気をつけて、この調子で新しい暮らしを、新しい未来を勝ち取ってください。これからも応援しています。
私はスリランカ国でNHKでながほら元気村のことを見ました。何年間前スリランカもつなみで大変な目に会えました。
元気村の人はなくなったものはたくさんあるけどいつでもなくならない人のチームワークを使って会え向きで頑張っていただきたいです。
日本でみたやさしい町をまた建ててください。